縦に高く、横に広く。

そうそう高身長で横にたくましいお相撲さんはモテるよね…!っではなくて「縦に長く専門的に勉強する」のか「横に広くボキャブラリーを取り入れる」のか人には2種類の考えがあると推測する。筆者は前者「縦に長く」なのでもしかしたら「横に広く」の方々に不信感を抱くかもしれないが、多数ボキャブラリーを持ってる人のほうが妬ましくもあり羨ましくも思っている。というのも会話をしている時に「あのドラマの主題歌の曲いいよね、このアーテイストの曲なんだけども話題になったあの曲も歌っているんだよ。こんな曲が好きなら違うアーティストのこの曲もオススメだよ」のような会話上手なシチュエーションを作ることができるからだ。自分にはこのようなシチュエーションは出来ない、縦に長く知識を取り入れるので「このドラマの主題歌いいよね。特に後ろで鳴っているドラムのリズムがいい。途中のジャッジャッと刻むところが一番の聞きごごちポイントだよ!」と受け身な話し方で共感を狙いつつと趣向が合うならばともっと凝った話を薦めていくからだ。

ただ、専門的な勉強をすることは悪くない。一般的に知っていることに対してさらに知ることができ、それに対して賛否両論な意見を言うことができる。クラシックのベートベンのように画家のピカソのように一つのものを突き詰めていくというのはよりよい。ただ一つのものに固着すると同じものにしか作らなくなってしまう。概念の固定化というもの。繰り返せば繰り返するほど出来なかったものが徐々に出来るようになるが、同じものを繰り返しているとそのことしか出来ずになり矯正しようとしても修正することもままならずどん底に陥ってしまうという。その点では幅広くボキャブラリーを手に入れたほうが様々なシチュエーションに耐えることができ上達の近道になる。

しかし、横に広く情報過多になるとそれこそ道化師な存在になってしまうだろう。様々なことをボキャブラリーにいれているため、色んなことを試行錯誤しやすい。アレやコレやと知ることは自分にも他人にも良いように話すことが出来るだろう。だが、知ることを知っただけで自分から挑戦しない。他人の言葉を嘘か真かも信じずに良いことだけ伝える人間になってしまう。そんな道化師な人間に詐欺をするように騙されることが判断できないのが横に広い人間の特徴である。

その点では「縦に長い」というのは自意識の強い職人のように極めることの出来る人間だということなのだろう。それに対して誇っても良い。ただし一つのものに固着するよりは新しいものに挑戦する。それに対して極めればさらなる極めたものとして身に残るからだ。

別に「横に広い」から騙されやすい。ダメだということではない、逆に「横に広い」ことを長所として縦に挑戦する。縦に広い人のように尖ったことは出来ないが様々な趣向を入れた知識というのは既存な事例を尊重しながらも「自分なりの新しいことを発見する」ことが出来るのが横に広いタイプの特徴だ。

隣の芝生は青く見える。相手が妬ましい。そう思えるのは「縦にも低く、横にも狭い」からであり無知であることを自分から自慢気に話す案山子のようなもの。だろう。

しかし隣の芝生が青く見えるからこそ自分の芝生を青くする。隣よりも青くしたいと思えるような実力があるのならば、それは「無知」ではなく「無明」だということ。何もないところから新しいものを発見する「縦に挑戦するのもよし(本を読んで試行錯誤)」「横に挑戦するのもよし(実際に上手い人に訊く)」それは好みの問題でもあるし人それぞれである。無知だからこそ新しいものを知ることができる無明だからこそ疑問を持つことができるそれが「縦に高く、横に広く」の精神なのではないでしょうか。

エイプリルフール

昔はWebページなどを弄ってエイプリルフールネタをするくらいは楽しんでいたのですが、最近は1日のために余力を注ぐということが出来ず。毎年4月1日を通過していまうという生活をしています。流石に嘘をついてもいい日とはいえ嘘をついたら自分に帰ってくるものですし平穏に生きたいと思っております。

何かの吉兆・凶兆だと思えばいいけど

草履の鼻緒が切れたときは何かの悪いことがあるとか、逆に悪いことがある前に神や守護霊が止めてくれて導いてくれているという話はありますよね。そんな感じでさきほど帰宅時にスマートフォンが落下して画面がパックリと破れました。今まで愛用していたスマートフォンだったのでちょっと哀しいといえば哀しいといいますが、逆にそのまま前に進んでいたら事故やら大怪我をするような凶兆を手を滑らして時間をずらしてくれたという霊の導きだったのかもしれません。前の記事で「常世と幽世」について話していたので誘われていたのかとちょっとこわい面もありますね。

鬼や妖怪に詳しくなった

最近、仁王2というゲームをプレーしていて日本の妖怪に詳しくなりました。ゲームの内容としては戦国時代に蔓延る妖怪や鬼を成仏させていくゲーム内容なのですが色々と知らなかった妖怪も多々出てきて知らずに好きになった妖怪としては「姑獲鳥(産女)」であり、出産時になくなった女性に出産した子どもを抱かして幸せに成仏させる風潮が日本や中国にもあるのかなと考えたりして少なからず教養としても楽しいゲームだと思っております。

陰から見守る守護的な位置

そよ風に流れて聴こえてくるのは新型肺炎コロナの話題、確かに生き残るために生を出すということは悪いことではないし生き残るというのは、自分自身にまだやりたいことがあるという表れだと思ってます。人も動物も昆虫もいつどこで死ぬという運命をたどるのかそれか予想ついたことなのか不幸なことなのかは時の導きが決めることなのかもしれません。

死んだあと霊になって書き込めれば現世にいる方々の恐怖を与えずに克服することは可能なのだと思われますが世の中では法度らしく死ぬ運命とは現世との文(ふみ)を届けられない苦渋の残るものでしょう。

死んだことはありませんが、常世(生きている世界)と幽世(死んだ世界)を彷徨ったことはあります。こと言えば三途の川ともいった場所でしょうか。俗説では死後7日間の間に常世と幽世に移動するための流れる川というのが一般的な解釈でしょうが…私は違うと思ってます。もしも現世で物足りない!と三途の川に刃向かう人がいたらどうするのかひょんとお墓の中から顔をだして生きる運命を選ぶのか、と過去のお話ではありそうなこと踏まえながら…

自分の思う「三途の川」というのは夢の中。常世1分の出来事が1時間後進んだような夢の世界感。今まで生きてきた楽しい出来事やびっくり恐怖にかんじたことが現身(うつせみ)として現れて生きるか死ぬかを彷徨う場所だと思ってます。死ぬのは怖いですが三途の川を彷徨ってる感覚は決して辛いものではありません。本人が幽世に行きたいと思わない限りは幸せを感じることのできる世界観だと思います。何度か経験はした事のある感覚なのでそれか三途の川とは言えませんが死との導きの一つになればと思います。

ところで現世を生きている私ですが、自分のしたいこと「人を助けること」を消化できていないので常世を生きているという感じです。ただ単に人を助けることが自分自身の取り柄なのかもっと個人のため人のために助言することはなかろうかと自分を鍛えながらも他人を愛すことを続けております。

死ぬということのためになぜ生きるのか決めていたほうが死んだときに三途の川でも幽世でも苦を感じることはなかろうと思います。単なる趣味、みんなに自分の音楽を届けたいからとか美味しいご飯を毎日食べさせてあげたいからとか簡単なことからでもいいでしょう。

最後に自分の書いたことを本気にしないでください。一つの語りなとして届けたいと言うことで長々と書いてしまいました。自分の中に秘めておくよりは経験した事として書いておいたほうが忘れずに残りますからね。

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時間の確保はできたけども…

最近、テレビゲームをプレーするのを辞めて趣味に没頭できるような時間は確保できるようにはなったのですが、一度切りやめたものはなかなかと火がつくのが遅く実行に移せない気持ちになっております。その点ではゲームをたんまりとしていた2年というのは勿体なく感じるようになりますね。

趣味の実力は何しても上がるけども

絵を書くこと、文字を入力すること。音楽を聴くこと、ゲームすること。
どれを選んでも趣味です。趣味に投資したり実力を上げていくことでもう一つ上の趣味に興味をそそらせることができる。ただ趣味というのは複数一緒には実行はできなくて一つの趣味を自分の満足できるところまで極めるというのが趣味であるということです。

なので今までの私がゲームを買ってプレーを極めていたのも一つの趣味でしょう。

ただ他の趣味を犠牲にしなければならない。

ゲームをする時間。1日3時間と過程しましょうか。それだけの時間を他の趣味に趣きを置いていれば今は何かしらの実力を獲ることができた。自分が目的にしたい技術を上げるのを疎かにしてテレビを見ていながら1日を過ごすのと同じくらいもったいない事です。気が付かないうちにその沼(怠慢)にハマってしまい、いざ行動しようとすると動けなかったりと怠けたことは代償として大きいものなのです

やりたいことがあるなら他のものを無視しなさい

絵を作りたいならば、絵を書きなさい。音楽を聞きたいならば音楽を聞きなさい。
今まで遊んだ時間と同じくらいのプレーをやりたいことに投資しましょう。それが出来ないのであればそれは本当に趣味なのですか?

本を読む時代から読まない時代へ

BLOGOS様の記事からこのような記事を見つけた
「ジュンク堂書店京都閉店!ロフト名古屋店も。時代は紙の本から電子書籍へ」

変化していると言えば嘘ではないが、書店員である私から言わせてみると、電子書籍化が書店の閉店に直結しているとは到底考えにくい。なぜ都心の大型書店などが次々と閉店しているのかお伝えしていきたい。

電子書籍が一因となってるのでは?

よく謳い文句に言われるのは「電子書籍」で読むユーザーの方が多くて、本屋で買う人が少なくなってしまったというお話。もともと本を買うのが億劫だった人がついでにスマートフォンで閲覧する方が多く、実際に紙の媒体から移行した人は少ないのである。

なぜそう言えるのか?

最近の話題だと「鬼滅の刃」をまとめ買い、「刀剣乱舞」やジャニーズ特集などの複数買いが目立つ。書店にとっては「特需」と言ってたりして大変喜ばしくお客様に感謝はしている、が別に考えてみればただ読むには電子書籍の方が混まずに買えてすべて揃えられるし、いちいち書店に訪れて予約や売り切れの可否を心待ちや悔しがらずにはならないはずなのである。なのにお客様は書店で購入したがる。何故なのか?

コレクター要素の一般化

オタク特有だった「コレクター要素の一般化」が表面に出てきているからだと思われます。

ソーシャルメディアで話題になったもの。メディアに取り上げられたもの。面白いからお得だからと小耳に挟んだものなどは気になるだろう。一言で言えば「みんなが持っているものを自分でも持ちたい(知りたい)」から一種のポケベル・たまごっちブームのようなものである。

あの時に読んでいたあの時に本を持っていた。そして、本を持っていることで何度でも振り返りをできるような感覚に浸ることができるというのが紙の媒体だと容易であります。

ジャニーズや刀剣乱舞などの複数買いというのは特殊だが、これはオタク文化にとっては至って普通であり「読みたいもの」「丁寧に保存するもの」「予備用(場合によっては布教用)」といった感じで好きなものは大切に使いたいということで複数買われてるのはよく言ったものです。

書店が減る要因

話を戻すと、実際に閉店してしまう書店が多いのは何故なのか?

集合場所としての書店

昔と比べて大きな要因として考えられるのは集合場所としての書店としての利用。昔は自宅からの固定電話や携帯電話で電話しながらの集合場所を決める故での書店の利用が多かった。立ち読みでもよいから本屋に居てくれるだけでもありがたい。人が集まるところ人が来るというのは迷信でもなく本当のことであり、待ってる間でも気になった本を購入していただけるだけでも書店としては利益になる。それがスマートフォンでLINEなどのSNSを利用しつつ、知らない土地で待ちあわせすることになっても。目印を本屋にしなくても集合することができることがひとつの大きな要因になってしまったのでしょう。

出版社による既存作者の構築

別に悪口ではないが、売れる作者を残し売れない作者を淘汰する文化が強く根付いているのが紙の媒体の悪い点である点。YoutubeやTwitterに比べ新しいクリエイターが前に出るということが少なく、古参の作者の本を全面に推してるというのが大きな要因だったりもする。(その方が売れるから)別に出版社を否定しているわけではない、新人も多く出してる出版社は多数あるが、いざ販売してもお客様に取ってもらえるというのは少なくいつの間にか消えていくというのが多々見受けられる点。

特需での判断

最近は割と「人気になるもの」だったり「メディアに紹介された」ものはすぐに増版(もう一度印刷所に頼んで刷ること)することが多くはなったが、一時期は雑誌に至っては売り切れたものは販売分でオシマイということが多く、実際に欲しい人まで商品を回すことが出来なかった。

「直ぐに刷れば売れるのに」と思うところは多々あり、「在庫を残したくない」出版社と「本(入荷)を多く入れて売りたい」本屋さん。そして「手に入れたい」お客さんとの天秤の兼ね合いが難しいところ

入荷数の決め方

どうやって次回の入荷数を決めているかご存知でしょうか?偶にソーシャルメディアで作者さんが取り上げられて知っている方もいらっしゃると思いますが書店員から言わしても割と嘆嗟したものです。

というのも、前回の"発売してから一週間"の販売数がそのまま次の入荷になるというもの。多少はそこから+2冊程度を加味して判断するのであろうとは思いますが、流石に一週間という判断は早いのでは無いだろうか?と私は思ってます。

本というのはいつの間にか出ていたから購入するということが多くそれが2週間や3週間経ってしまったと考えるのが現状。今までの考えで、出版社や取次が減らすことを考えていればそれは誰が考えても低迷するよねと言いたくなるものです。

(無理には言いませんが応援したい。続けて読みたい作者がいれば発売日から一週間以内に買われるのをオススメします。)

時代背景上仕方ない。

江戸に文字を大量に複製する技術が生まれ、明治・大正に一般大衆向けに本を広めるという時代背景が完成した。娯楽としての本。知識を極めるための書籍として多くの人気を得ることができた。それが昭和・平成と100年の時代を重ねることによって表現する本。トレンドを知るための書籍と変化しつつ変化してゆき、令和では話題性のあるものコレクトとしての本として変わっていくのではないかと思います。

言ってしまえば古書を集めるマニアや同じものを複数購入するオタクというのは一種の最先端でもあり、過去に戻りたい(ロマン主義)でもあるのではないでしょうか? 世の中が変わってきているのはつくづくと感じてます。表現する人がまだ出てきていないだけでアンティークな文化を戻したいというのはあるのだと思います。言ってしまえば昭和浪漫・平成団欒のような感じでしょうか

長々と済みません

長々と自分の思ってることを呟いてしまったのでもしかしたら本を買われて読者とは違う意識なのかもしれません。もしそう思われたならブログやSNSで何なりと声を上げるのをオススメします。表現もせずに是非を言うのはよろしくないです。一人の声がもしかしたら「本」という文化を変えるのかもしれません。それでも時代か進んでしまって増えるのか減るのかそれとも違う文化になるのかは未来の戯言です。私的にはコレクトな文化を期待したいですね。