自己満足な日記を書く

日記というのは自己満足なぶん、その日の勢いに任せやすい。
とはいえ日数が経っていくと、なんでこんな文章を書いたんだろうと反省することもある。人生も取捨選択をして生きているに違いない。いらない日記は削除して要るものだけ残してしまおうというのが面白い日記なのだろうか。

とはいえ過去の偉人の日記には赤裸々な体験や話をつづっているものもある。失敗したことやら、偉人にしては普段どおりの生活日記など、読み手には必要にはならない情報だとしても日記として残している。

書き手が画く日記というのは「時代をえがく日記」として残すべきなのだと思う。それが自分だけのものだとしても後世には自分だけのものとは限らず、他者との共感を得るものとして必要なこともあるだろう。

言葉というのは海に書いた文字のように流されやすい。話題になったものだとしても時間が経てば消えゆくものである。ただしっかりと物に書いた字というのは風化せずに残っている。石碑のように百年・千年と言葉として残るものもある。言葉を残すということは存在していたという証明にもなるのではないだろうか。

それを踏まえて日記というのは、自分が思うことを伝えればよい。赤裸々な内容だとしても誰かしらツッコンでくれるかもしれない。言葉を刻むということが大切なのだろう。

自分が思う「慈愛の精神」

否定的なことを討論する人は沢山いるけども、肯定的なことを討論する人は少ない。他人の不幸は蜜の味とも言ったところか、他人を思う慈愛の精神というのは限られた人が持っている特別なもの。

ところで慈愛の精神ってなんだろう?と思う人も多いだろう。簡単に言えば「自分が愛されたければ他人も愛しなさい」ということ、自分が幸せになりたければ困ってる人を助けなさい。そしたらいつか自分が困ったときに誰かの助けがくるでしょう。否定的なことを考えてる人には幸せなことは起きませんよという言葉です。

他人を恨めば、自分が恨まれる。他人を否定すれば自分にも戻ってくる。
人生というのはそういうものです。

ただ、「自分が幸せになりたいから他人を助ける」というのは慈愛の精神とは違うものです。よく勘違いされるのがボランティア「心の中で目立ちたいから」「協調したいから」とか「苦労を感じたい」が為に参加をする人が多々います。面白半分で参加するというのはそれは自分自身に快楽を求めたい(楽しみが欲しいがため)でしょう。とはいえ「キチンとした心前」で参加するのであれば、それは仏教的な思想「慈悲深い」苦しみを楽しみに変えて幸せにしたいという思想にもなるかもしれませんね。

慈愛とは「自分から幸せにはなってはいけない」愛情を振りまいていれば後から「他人から幸せをくれる」ということ。そして、この気持ちを心がけてると心が豊かになるものです。

こだわりのサイクル

何かに意識をしてしまうとそれが気になって毎日・毎時と見てしまう。楽しみや嬉しさ好奇心が欲しいだけで実際のところ集中出来なかったり一途にものを見てしまうだけでデメリットが大きい。変なこだわりを持ってしまうというのは「変化のない同じことを繰り返す」「まわりのことばを気にしてない」というのが要因。

「こだわる」ということが悪いわけではない。陶芸品をつくる巨匠やさかなクンのような専門家などと一つのものに貫き通す努力をする方もいらっしゃるのである。では、彼らとは何が違うのか?

それは「こだわりのサイクル」が違うからである。

まずひとつのことにこだわる。前回と同じことだとしても一途にこだわり。もう成長が見えなくなったら諦める。そして新しいことに挑戦するというのが「一般的なこだわり」

ひとつのことにこだわりながらも新しいことを取り入れて挑戦しつつ欠点をどう補っていくかを追求していくのが、「匠や専門家などのこだわり」の考え方かもしれません。

少し考え方が違うだけでも、成長の速さは雲泥の差。自分のしたいことを考えながらも新しいものに目を向けて情報を発信することが大事だと思います。

ことばの積み木

文豪のエッセイのように1日400文字くらいで綴れれば良いとは思うのですが、なかなかそういうわけにはいかず、ものを書かずに一日を過ぎてしまうということに哀愁を感じます。

普段の生活をおもしろおかしく書いたり、描写的に書くというのは理解ってても難しいことです。大体の人は自分にあったことをそのまま表現してしまうので実際での読み手からしたらモヤモヤした状態で話が進んで、どの言葉が強調されているのか判らずに新たな言葉が登場してゆく自分だけの文章になってゆくのです。

言ってしまえば「積み木」のようなもの。四角のような角ばった表現があれば三角のように尖った表現もある。丸のような柔らかい表現は優しいイメージはあるかもしれないけど三角や四角などを使うときにはどうしても隙間が出来てしまう。その隙間がモヤモヤした表現があるということ

もやもやした表現をどうしたら解消できるのかというと、角っこが丸くなっているような積み木。変わった表現をしてみるのが文章に味を持たせることができるポイントだと思います。

例えば「積み木でお城」を作ろうとするとき「とある某国、1800年続いた歴史のあるこの由緒あるこのお城に存続の危機が生まれた…」と角ばった表現もあれば「死闘の末、守ってきたが防衛は崩れ痛々しい傷が増えてく一方…」のような心にのこるような尖った表現。「BABY、それは赤ちゃん。今まで築いてきた文明を壊す無邪気な存在、何でもかんでも壊しちゃう」のような柔らかい表現にアクセントを加えた言葉などを組み合わせることによって面白みを伝えることができます。

とは言っても文章をうまく構築していくのは難しいので積み木のように「機関車作りたい」「お城をつくりたい」「動物園にしたい」などと伝えたいことを最初に決めておくのが上手になる言葉のエッセンスだと思います。

言霊と自分の伝えたいこと。

記事を多く書いたり惹かれるようなタイトルを書かないのでこのブログの流入数は1記事で20人程度(ほぼソーシャルメディア)です。コンテンツを絞っていない日記なので、この程度でしょう。

だいたい1記事を書くのに1時間はかかってしまいます。
自分の話したい言葉を考えながら感覚で書いて入力していき、同じような言い回しを使わないようにしたり、語尾が著しく変わっていないか確認したりと添削するのでソーシャルメディアの投稿のように直ぐに内容を書けるというのは難しいです。

ブログで何を伝えるべきか

ブログを書こうとしてやっぱり書かずに置いておこう。書いたけども単なる面白みのないことを綴っている内容が沢山ある。大体は近々で起こったこととか愚痴のような好評や批評などと語ってはいるが、書いてて楽しくない嫌悪感を抱いてしまってだるくなってしまうことが多々あります。

好評や批評・レビューというのはユーザーを引き寄せるには良いものですが、好転的な意見・悪化するような内容一個一個に敏感になってしまい精神的にも影響を受けてしまうということが最近わかりました。

言葉は言霊になりやすいというのはこういうことなんでしょうね。

自分の追い求めるもの

自分が追い求めるものとしては、自分の世界観を言葉やイラストで共有したい、小さなことだけども誰かの手助けになれば良いという意識を続けています。楽しいことは楽しい。辛いことはつらい。と言いたくなるような子どものような世界です。

ただ、ファンタジーな世界観を隅から隅まで綴るというのは難しいものでしょうし曖昧な設定だと前半良くても後半がふわふわして足がついてない状態で完結と後味の悪いストーリになってしまいます。だから自分の世界を語れる人というのは誇らしいと思ってます。

そんな人間になりたいかと言うとなりたいですし一総として制作したい気持ちはあります。ですが自分に足りないものとして、「終始をつくるのは上手いものの、中身がスッカスカ」な肉付きのない骨の基礎建築ということが問題です。話は面白いのに結果を早々と伝えたくなってしまい内容としては意味のわからないストーリになっている。途中で話の論点が変わりやすいことが欠点でしょうか。

次につなげたいこと

だれが閲覧するかわからないけども自分の妄想を言葉にしてストーリにしてみるのもよい試みかもしれませんね。この記事を書くまではなにか書いてよいものだろうかと突っかかった気持ちがありましたがスッキリしました。

自分が思ってる言霊。言えないことを言ってみるといいかもしれません。