浪漫とはなんだろう。

イラストブログを統合しようとしてた。それとイヤフォン・ヘッドフォン雑談

前回で紹介させていただいだ、Macで音声入力。

iTuneで音楽聞きながらのコメントは入力できないのですね。音楽を聞きながら思いついたことを綴っていくわたしには残念な処理です。

浪漫談義

最近の趣といえば、「自分が持っているものを他者はどのように使っている」のか。もしくは「ちょっと買いたいものの自分にあった機能が果たしてあるのか」と検討を兼ねて動画(Youtube)をみることをしています。動画の中では「買いたて」の方もいれば「マニア」の方もいて、今まで文字でしか浪漫を語り合えなかったものが動画として表現できるようになったのは、クリエイター側も視聴者も嬉しい機能です。

ただ浪漫というのは自分の追い求めた、もしくは追い求めている理想の地であり、つい文句を言ってしまったところで、それは自分なりの仕切りをつくってしまっている。新発見できないからネガティブなことを呟いてしまう。それは浪漫ではなくて周りに合わせたいが為の模倣なのでは?と思います。

完全なるものというのは存在しない

いわゆる完璧。何も負のないことというのは実際は存在しないです。どこかしらズレていてどこかしら欠点というのはある。「足りないものを補う」のか、それとも「逆に特別なことを尖らせる」のかは個人の力量次第です。

自分も一時期は他人から憧れる存在になろうと様々なことに手をだしていましたが、人よりも優れたと思えることは「米粒くらいの小ささ」にしかならないということでした。趣味を分かち合えるというのは楽しいことですが、ときには自分の趣味を汚してしまう。自身の求めている浪漫とはなんだろうか?と不信に思ってしまい、他人を模倣して追いかけるというのはやめることにしました。

自身の浪漫主義

とりあえずは自分のやりたいときにやりたいことを求め、それに対して「駄目だったなぁ」と呟かないことをモットーにしています。買ったけどもイマイチだった。作ったけども良くなかった。ことは多々ありますが、それは何かしらの分野で使えるもの。料理で言う隠し味、時にはアクセントを加えるものだと感じております。

何を求め何を追うのか。

今回の内容では自分自身のオーディオに対する浪漫を考えながら書き込んでいましたが、書いていて自分自身のイラストに対する浪漫や自分のやりたいことの追求に論点を置くことができたかなと再認識しました。自分自身が満足してしまって停滞しているものはありますが、それは追い求める浪漫成分が足りてない、まだまだ向上できることは沢山あるということを気づかせていただいたということです。

メカクレいいよね

話は変わるけども、一部の界隈では。髪で目が隠れた姿を「メカクレ(目隠れ)」というのですが、フェチズムというのも浪漫の一つなんじゃないでしょうか。最初は気づかず好きなものを追い求めていただけなのに気づいたらそのことを好きになっていた。いわゆる恋というものですかね。

自己満足な日記を書く

日記というのは自己満足なぶん、その日の勢いに任せやすい。
とはいえ日数が経っていくと、なんでこんな文章を書いたんだろうと反省することもある。人生も取捨選択をして生きているに違いない。いらない日記は削除して要るものだけ残してしまおうというのが面白い日記なのだろうか。

とはいえ過去の偉人の日記には赤裸々な体験や話をつづっているものもある。失敗したことやら、偉人にしては普段どおりの生活日記など、読み手には必要にはならない情報だとしても日記として残している。

書き手が画く日記というのは「時代をえがく日記」として残すべきなのだと思う。それが自分だけのものだとしても後世には自分だけのものとは限らず、他者との共感を得るものとして必要なこともあるだろう。

言葉というのは海に書いた文字のように流されやすい。話題になったものだとしても時間が経てば消えゆくものである。ただしっかりと物に書いた字というのは風化せずに残っている。石碑のように百年・千年と言葉として残るものもある。言葉を残すということは存在していたという証明にもなるのではないだろうか。

それを踏まえて日記というのは、自分が思うことを伝えればよい。赤裸々な内容だとしても誰かしらツッコンでくれるかもしれない。言葉を刻むということが大切なのだろう。

自分が思う「慈愛の精神」

否定的なことを討論する人は沢山いるけども、肯定的なことを討論する人は少ない。他人の不幸は蜜の味とも言ったところか、他人を思う慈愛の精神というのは限られた人が持っている特別なもの。

ところで慈愛の精神ってなんだろう?と思う人も多いだろう。簡単に言えば「自分が愛されたければ他人も愛しなさい」ということ、自分が幸せになりたければ困ってる人を助けなさい。そしたらいつか自分が困ったときに誰かの助けがくるでしょう。否定的なことを考えてる人には幸せなことは起きませんよという言葉です。

他人を恨めば、自分が恨まれる。他人を否定すれば自分にも戻ってくる。
人生というのはそういうものです。

ただ、「自分が幸せになりたいから他人を助ける」というのは慈愛の精神とは違うものです。よく勘違いされるのがボランティア「心の中で目立ちたいから」「協調したいから」とか「苦労を感じたい」が為に参加をする人が多々います。面白半分で参加するというのはそれは自分自身に快楽を求めたい(楽しみが欲しいがため)でしょう。とはいえ「キチンとした心前」で参加するのであれば、それは仏教的な思想「慈悲深い」苦しみを楽しみに変えて幸せにしたいという思想にもなるかもしれませんね。

慈愛とは「自分から幸せにはなってはいけない」愛情を振りまいていれば後から「他人から幸せをくれる」ということ。そして、この気持ちを心がけてると心が豊かになるものです。

こだわりのサイクル

何かに意識をしてしまうとそれが気になって毎日・毎時と見てしまう。楽しみや嬉しさ好奇心が欲しいだけで実際のところ集中出来なかったり一途にものを見てしまうだけでデメリットが大きい。変なこだわりを持ってしまうというのは「変化のない同じことを繰り返す」「まわりのことばを気にしてない」というのが要因。

「こだわる」ということが悪いわけではない。陶芸品をつくる巨匠やさかなクンのような専門家などと一つのものに貫き通す努力をする方もいらっしゃるのである。では、彼らとは何が違うのか?

それは「こだわりのサイクル」が違うからである。

まずひとつのことにこだわる。前回と同じことだとしても一途にこだわり。もう成長が見えなくなったら諦める。そして新しいことに挑戦するというのが「一般的なこだわり」

ひとつのことにこだわりながらも新しいことを取り入れて挑戦しつつ欠点をどう補っていくかを追求していくのが、「匠や専門家などのこだわり」の考え方かもしれません。

少し考え方が違うだけでも、成長の速さは雲泥の差。自分のしたいことを考えながらも新しいものに目を向けて情報を発信することが大事だと思います。

ことばの積み木

文豪のエッセイのように1日400文字くらいで綴れれば良いとは思うのですが、なかなかそういうわけにはいかず、ものを書かずに一日を過ぎてしまうということに哀愁を感じます。

普段の生活をおもしろおかしく書いたり、描写的に書くというのは理解ってても難しいことです。大体の人は自分にあったことをそのまま表現してしまうので実際での読み手からしたらモヤモヤした状態で話が進んで、どの言葉が強調されているのか判らずに新たな言葉が登場してゆく自分だけの文章になってゆくのです。

言ってしまえば「積み木」のようなもの。四角のような角ばった表現があれば三角のように尖った表現もある。丸のような柔らかい表現は優しいイメージはあるかもしれないけど三角や四角などを使うときにはどうしても隙間が出来てしまう。その隙間がモヤモヤした表現があるということ

もやもやした表現をどうしたら解消できるのかというと、角っこが丸くなっているような積み木。変わった表現をしてみるのが文章に味を持たせることができるポイントだと思います。

例えば「積み木でお城」を作ろうとするとき「とある某国、1800年続いた歴史のあるこの由緒あるこのお城に存続の危機が生まれた…」と角ばった表現もあれば「死闘の末、守ってきたが防衛は崩れ痛々しい傷が増えてく一方…」のような心にのこるような尖った表現。「BABY、それは赤ちゃん。今まで築いてきた文明を壊す無邪気な存在、何でもかんでも壊しちゃう」のような柔らかい表現にアクセントを加えた言葉などを組み合わせることによって面白みを伝えることができます。

とは言っても文章をうまく構築していくのは難しいので積み木のように「機関車作りたい」「お城をつくりたい」「動物園にしたい」などと伝えたいことを最初に決めておくのが上手になる言葉のエッセンスだと思います。