本を蓄えて好きなときに食べる

オフィーリア

Google Home で「雨の音」を聴きながらぐっすりと寝ている黒姫です。

最近は読みたくなる本が多くてどんどんと買っちゃうような気分となってますが、本にかける投資はどんな赤字でも購入しよう!とする意識は大切にしてます。本に出会って立ち止まるということは自分に足りないものを補ってくれる、今までの考えを更に向上させるもの。自分でゆっくりと考えることも大切ですが、本を読むことで考え方の近道を示してくれるアイテムだと思ってます。なのでどれだけ赤字でも「出会ったものには手を取る」という行動は大切にしてるのです。

そして、買ったものは好きなときに読む。寂しいときは温かい友情なもの。暑いときはホラーな心がヒヤッとするもの、向上心が欲しいときは啓発本を読んで勉強をする。たんなる文庫や単行本かも知れないけど、考え方や言葉の使い方・新たなニュアンスを真似る土台となるでしょう。読書というのは無理して読まないということが肝心だと思います。

本を読んだら、良かったものをメモに取る。アナログでも良いしデジタルでまとめても大丈夫、自分が小説の中の主人公(ヒーロー・ヒロイン)だとして心に響いたもの、作者は何を伝えたかったのかを知ることが読むことの楽しみ(推察)でしょう。同じ本を読んだとしても答えは様々です。「主人公とサブキャラの絡みが良かった」という人もいれば「シリアスな展開が心に響いた」という人もいる。「探偵のように黒幕はこの人だろう」と追求しながら読む人もいらっしゃいます。とにかく自分の読み方で感想を述べることが大切なのです。

勉強とボキャブラリー


 シスター

仏教の説経やキリストの説教を踏まえて人生とは何か、迷える子羊の為に助言をさしあげるお坊さんや神父さんって凄いと思う。自分でも「困っている人を手助けをする」という精神は強いのだが、最後まで見守ってあげられるようなボキャブラリーを合わせておらずギクシャクとした気持ちになってしまうことが多い。「経験は力」とは言ったもので様々な知識を長年取り入れている人のほうが知識も豊富になるってこと、知識を表顕せず頭の中の引き出しにいれて、『ここぞ』っていうときに披露できる人のほうが格好いい。

勉強とは「自分の生活していくための知識として取り入れるもの」だと。高校・大学まで勉強したからそれでいいやと止めてしまうのではなく「好きなもの」を追求してみる。歴史なら戦国時代の武将が大勢いるが、有名なのは「織田・豊臣・徳川」と教科書にも3人が戦国時代を統括したとは書いてある。しかしその当時に領地を制圧してたのは「細田」「上杉」と名前を聞いたことあるけど事情の知らないことがあるだろう。そういうときは詳しく説明している本や専門書をよみながら「勉強」して、さらなる向上心があるのであればお城にいき現地で「追求」する。これが正しい勉強だと私は思っている。

別に他人と一緒になることはない。変わった考え方もあれば他の人にはなかったアイデアも出すことができるだろう。ただボキャブラリーを増やすには自分から行動をして勉強をするしかない。大人になったからやめるのではなく、大人になったからこそ自由な行動や発見できるのだと。

自分が思う「慈愛の精神」

否定的なことを討論する人は沢山いるけども、肯定的なことを討論する人は少ない。他人の不幸は蜜の味とも言ったところか、他人を思う慈愛の精神というのは限られた人が持っている特別なものである。

ところで慈愛の精神ってなんだろう?と思う人も多いだろう。簡単に言えば「自分が愛されたければ他人も愛しなさい」ということ、自分が幸せになりたければ困ってる人を助けなさい。そしたらいつか自分が困ったときに誰かの助けがくるでしょう。否定的なことを考えてる人には幸せなことは起きませんよという言葉です。

他人を恨めば、自分が恨まれる。他人を否定すれば自分にも戻ってくる。
人生というのはそういうものです。

ただ、「自分が幸せになりたいから他人を助ける」というのは慈愛の精神とは違うものです。よく勘違いされるのがボランティア「心の中で目立ちたいから」「協調したいから」とか「苦労を感じたい」が為に参加をする人が多々います。面白半分で参加するというのはそれは自分自身に快楽を求めたい(楽しみが欲しいがため)でしょう。とはいえ「キチンとした心前」で参加するのであれば、それは仏教的な思想「慈悲深い」苦しみを楽しみに変えて幸せにしたいという思想にもなるかもしれませんね。

慈愛とは「自分から幸せにはなってはいけない」愛情を振りまいていれば後から「他人から幸せをくれる」ということ。そして、この気持ちを心がけてると心が豊かになるものです。

こだわりのサイクル

何かに意識をしてしまうとそれが気になって毎日・毎時と見てしまう。楽しみや嬉しさ好奇心が欲しいだけで実際のところ集中出来なかったり一途にものを見てしまうだけでデメリットが大きい。変なこだわりを持ってしまうというのは「変化のない同じことを繰り返す」「まわりのことばを気にしてない」というのが要因。

「こだわる」ということが悪いわけではない。陶芸品をつくる巨匠やさかなクンのような専門家などと一つのものに貫き通す努力をする方もいらっしゃるのである。では、彼らとは何が違うのか?

それは「こだわりのサイクル」が違うからである。

まずひとつのことにこだわる。前回と同じことだとしても一途にこだわり。もう成長が見えなくなったら諦める。そして新しいことに挑戦するというのが「一般的なこだわり」

ひとつのことにこだわりながらも新しいことを取り入れて挑戦しつつ欠点をどう補っていくかを追求していくのが、「匠や専門家などのこだわり」の考え方かもしれません。

少し考え方が違うだけでも、成長の速さは雲泥の差。自分のしたいことを考えながらも新しいものに目を向けて情報を発信することが大事だと思います。

ことばの積み木

文豪のエッセイのように1日400文字くらいで綴れれば良いとは思うのですが、なかなかそういうわけにはいかず、ものを書かずに一日を過ぎてしまうということに哀愁を感じるのです。

普段の生活をおもしろおかしく書いたり、描写的に書くというのは理解ってても難しいことです。大体の人は自分にあったことをそのまま表現してしまうので実際での読み手からしたらモヤモヤした状態で話が進んで、どの言葉が強調されているのか判らずに新たな言葉が登場してゆく自分だけの文章になってゆくのです。

言ってしまえば「積み木」のようなもの。四角のような角ばった表現があれば三角のように尖った表現もある。丸のような柔らかい表現は優しいイメージはあるかもしれないけど三角や四角などを使うときにはどうしても隙間が出来てしまう。その隙間がモヤモヤした表現があるということなのです。

もやもやした表現をどうしたら解消できるのかというと、角っこが丸くなっているような積み木。変わった表現をしてみるのが文章に味を持たせることができるポイントだと思います。

例えば「積み木でお城」を作ろうとするとき「とある某国、1800年続いた歴史のあるこの由緒あるこのお城に存続の危機が生まれた…」と角ばった表現もあれば「死闘の末、守ってきたが防衛は崩れ痛々しい傷が増えてく一方…」のような心にのこるような尖った表現。「BABY、それは赤ちゃん。今まで築いてきた文明を壊す無邪気な存在、何でもかんでも壊しちゃう」のような柔らかい表現にアクセントを加えた言葉などを組み合わせることによって面白みを伝えることができます。

とは言っても文章をうまく構築していくのは難しいので積み木のように「機関車作りたい」「お城をつくりたい」「動物園にしたい」などと伝えたいことを最初に決めておくのが上手になる言葉のエッセンスだと思います。