文章クリエイトできる人って凄い

いやはや自分でも文章を描くことは好きですが、自分の世界感を文章にして長編を作れと言われても無理と言いたくなります。Twitterのフォロワーでは文章作品として世界観を紡ぐ人がいてその実力に驚きを隠せません。と言っても自分も昔はライトノベルみたいな「括弧」にキャラの言葉を繋ぐような小説を書いたことはあります。しかし時代としては15年前くらいに書いたものであり、文章力が増えたとはいえ今の技術で世界観を紡ぐということは難しいかもしれません。それだけ文章よりもイラストでの表現に力を注いだといえば注いでるのかもしれませんが…。

文章の難しさ

それで「文章」の何が難しいって最初に始まる言葉が難しいのですよね。
作文といえば「タイトル」書きたいことは山程あるけども「タイトル」がしっかりしていないと書き出しが良くわからないものになる。タイトルを無視して「書き出し」を重点に置くと文章は書きやすいが伝えたいことは不安定になりやすい、いざ最初から読み直すとなんだコレ…と頭を抱えるくらい粗悪な文章が出来てしまう。この行き違いが作文嫌いになりやすい原因。

「加筆」と「添削」・「プラス」と「マイナス」の試行錯誤を繰り返せば、作者の伝えたいことも明確化するでしょうが、やってしまうのは、それよりも書きたいことが上回ってしまうこと、そして修正出来ないほどに網目模様に紡いでしまう。解すには書いたものを直すよりも削除して伝え直したほうが早いのですから言葉って結構扱いに難しいものなのです。

そして想像で書く文章

さらに想像で書くとなると他の人に自分のあったことや妄想の世界観を表現しなければならない。
雪降る街並みにひとり孤独にたたずむ女の子…。っと客観的に、マッチはいかがですか…!と主観的に話す言葉。その組み合わせをうまく混ぜながら文章を書かなければいけないため作文やブログダイアリーを書くのとは違う難しさがあり上手い人なら息を吸うように紡ぐことが出来るでしょうが自分にはまだまだほど遠い技術です。だから話し言葉に「括弧」を多用してしまう悪いクセです。

それと不安定な世界観

イラストとしてキャラクターはあるものの、そのキャラクターがどのような過去があって未来にはどうしたいのかを決めていない。キャタクター原案の状態でしか作っておらず世界を紡ごうとしても不安定になってしまうから手をつけてないというのが、クリエイトできないのも要因の一つでしょうね。何故ならキャラクターが可愛いからおめかししたくなる箱入り娘(息子)だから汚したくないんです。考えてみると駄目な親ですね…。子は旅をさせよと言いますからストーリを構築していったほうが美味しいキャラクター設定になるはずなのですがね。

文章をクリエイトするにあたっては

たぶん自分も作品をつくるセンスはあるのでしょう。ただしょうもないストーリを作りたくない、凝った話を思いついたら書きたい!だから放置している。これが一番の理由なのかもしれませんね。ですが汚すのもストーリの一つ。マイキャラストーリ(生活感)もここのブログで披露したいですね。妄想が膨らんだから書き綴ります。

ブログのデザインをコッソリと変更

気がついた方は気づいてると思いますが、ブログのデザインを少しだけメイン文章を見やすくするために「単独記事のときはタイトル部分の非表示」と「ソーシャルメディア投稿ボタンを上段に」の2つを変更させていただきました。

実は前々から気にはなっていたもののPHP形式でWordpress内部のプログラミングをしなきゃいけないため、嫌だなぁと思ってたわけですが使っていたアドオンが非対応になったり様々なブログメンテナンスを行わなきゃいけなくなったためこれを気に更新しました。シンプルに変更ですが自分ながらシックリするものが出来たので嬉しく思います。

縦に高く、横に広く。

そうそう高身長で横にたくましいお相撲さんはモテるよね…!っではなくて「縦に長く専門的に勉強する」のか「横に広くボキャブラリーを取り入れる」のか人には2種類の考えがあると推測する。筆者は前者「縦に長く」なのでもしかしたら「横に広く」の方々に不信感を抱くかもしれないが、多数ボキャブラリーを持ってる人のほうが妬ましくもあり羨ましくも思っている。というのも会話をしている時に「あのドラマの主題歌の曲いいよね、このアーテイストの曲なんだけども話題になったあの曲も歌っているんだよ。こんな曲が好きなら違うアーティストのこの曲もオススメだよ」のような会話上手なシチュエーションを作ることができるからだ。自分にはこのようなシチュエーションは出来ない、縦に長く知識を取り入れるので「このドラマの主題歌いいよね。特に後ろで鳴っているドラムのリズムがいい。途中のジャッジャッと刻むところが一番の聞きごごちポイントだよ!」と受け身な話し方で共感を狙いつつと趣向が合うならばともっと凝った話を薦めていくからだ。

ただ、専門的な勉強をすることは悪くない。一般的に知っていることに対してさらに知ることができ、それに対して賛否両論な意見を言うことができる。クラシックのベートベンのように画家のピカソのように一つのものを突き詰めていくというのはよりよい。ただ一つのものに固着すると同じものにしか作らなくなってしまう。概念の固定化というもの。繰り返せば繰り返するほど出来なかったものが徐々に出来るようになるが、同じものを繰り返しているとそのことしか出来ずになり矯正しようとしても修正することもままならずどん底に陥ってしまうという。その点では幅広くボキャブラリーを手に入れたほうが様々なシチュエーションに耐えることができ上達の近道になる。

しかし、横に広く情報過多になるとそれこそ道化師な存在になってしまうだろう。様々なことをボキャブラリーにいれているため、色んなことを試行錯誤しやすい。アレやコレやと知ることは自分にも他人にも良いように話すことが出来るだろう。だが、知ることを知っただけで自分から挑戦しない。他人の言葉を嘘か真かも信じずに良いことだけ伝える人間になってしまう。そんな道化師な人間に詐欺をするように騙されることが判断できないのが横に広い人間の特徴である。

その点では「縦に長い」というのは自意識の強い職人のように極めることの出来る人間だということなのだろう。それに対して誇っても良い。ただし一つのものに固着するよりは新しいものに挑戦する。それに対して極めればさらなる極めたものとして身に残るからだ。

別に「横に広い」から騙されやすい。ダメだということではない、逆に「横に広い」ことを長所として縦に挑戦する。縦に広い人のように尖ったことは出来ないが様々な趣向を入れた知識というのは既存な事例を尊重しながらも「自分なりの新しいことを発見する」ことが出来るのが横に広いタイプの特徴だ。

隣の芝生は青く見える。相手が妬ましい。そう思えるのは「縦にも低く、横にも狭い」からであり無知であることを自分から自慢気に話す案山子のようなもの。だろう。

しかし隣の芝生が青く見えるからこそ自分の芝生を青くする。隣よりも青くしたいと思えるような実力があるのならば、それは「無知」ではなく「無明」だということ。何もないところから新しいものを発見する「縦に挑戦するのもよし(本を読んで試行錯誤)」「横に挑戦するのもよし(実際に上手い人に訊く)」それは好みの問題でもあるし人それぞれである。無知だからこそ新しいものを知ることができる無明だからこそ疑問を持つことができるそれが「縦に高く、横に広く」の精神なのではないでしょうか。

エイプリルフール

昔はWebページなどを弄ってエイプリルフールネタをするくらいは楽しんでいたのですが、最近は1日のために余力を注ぐということが出来ず。毎年4月1日を通過していまうという生活をしています。流石に嘘をついてもいい日とはいえ嘘をついたら自分に帰ってくるものですし平穏に生きたいと思っております。

何かの吉兆・凶兆だと思えばいいけど

草履の鼻緒が切れたときは何かの悪いことがあるとか、逆に悪いことがある前に神や守護霊が止めてくれて導いてくれているという話はありますよね。そんな感じでさきほど帰宅時にスマートフォンが落下して画面がパックリと破れました。今まで愛用していたスマートフォンだったのでちょっと哀しいといえば哀しいといいますが、逆にそのまま前に進んでいたら事故やら大怪我をするような凶兆を手を滑らして時間をずらしてくれたという霊の導きだったのかもしれません。前の記事で「常世と幽世」について話していたので誘われていたのかとちょっとこわい面もありますね。

鬼や妖怪に詳しくなった

最近、仁王2というゲームをプレーしていて日本の妖怪に詳しくなりました。ゲームの内容としては戦国時代に蔓延る妖怪や鬼を成仏させていくゲーム内容なのですが色々と知らなかった妖怪も多々出てきて知らずに好きになった妖怪としては「姑獲鳥(産女)」であり、出産時になくなった女性に出産した子どもを抱かして幸せに成仏させる風潮が日本や中国にもあるのかなと考えたりして少なからず教養としても楽しいゲームだと思っております。

陰から見守る守護的な位置

そよ風に流れて聴こえてくるのは新型肺炎コロナの話題、確かに生き残るために生を出すということは悪いことではないし生き残るというのは、自分自身にまだやりたいことがあるという表れだと思ってます。人も動物も昆虫もいつどこで死ぬという運命をたどるのかそれか予想ついたことなのか不幸なことなのかは時の導きが決めることなのかもしれません。

死んだあと霊になって書き込めれば現世にいる方々の恐怖を与えずに克服することは可能なのだと思われますが世の中では法度らしく死ぬ運命とは現世との文(ふみ)を届けられない苦渋の残るものでしょう。

死んだことはありませんが、常世(生きている世界)と幽世(死んだ世界)を彷徨ったことはあります。こと言えば三途の川ともいった場所でしょうか。俗説では死後7日間の間に常世と幽世に移動するための流れる川というのが一般的な解釈でしょうが…私は違うと思ってます。もしも現世で物足りない!と三途の川に刃向かう人がいたらどうするのかひょんとお墓の中から顔をだして生きる運命を選ぶのか、と過去のお話ではありそうなこと踏まえながら…

自分の思う「三途の川」というのは夢の中。常世1分の出来事が1時間後進んだような夢の世界感。今まで生きてきた楽しい出来事やびっくり恐怖にかんじたことが現身(うつせみ)として現れて生きるか死ぬかを彷徨う場所だと思ってます。死ぬのは怖いですが三途の川を彷徨ってる感覚は決して辛いものではありません。本人が幽世に行きたいと思わない限りは幸せを感じることのできる世界観だと思います。何度か経験はした事のある感覚なのでそれか三途の川とは言えませんが死との導きの一つになればと思います。

ところで現世を生きている私ですが、自分のしたいこと「人を助けること」を消化できていないので常世を生きているという感じです。ただ単に人を助けることが自分自身の取り柄なのかもっと個人のため人のために助言することはなかろうかと自分を鍛えながらも他人を愛すことを続けております。

死ぬということのためになぜ生きるのか決めていたほうが死んだときに三途の川でも幽世でも苦を感じることはなかろうと思います。単なる趣味、みんなに自分の音楽を届けたいからとか美味しいご飯を毎日食べさせてあげたいからとか簡単なことからでもいいでしょう。

最後に自分の書いたことを本気にしないでください。一つの語りなとして届けたいと言うことで長々と書いてしまいました。自分の中に秘めておくよりは経験した事として書いておいたほうが忘れずに残りますからね。

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