自転車を漕いでた時に財布を落とした件

発端

いつかは自分も落とすのではないかと思っていたのですが、昨日。ついに落としてしまいました。最初はポケットに財布を入れ忘れて自宅を出たんじゃないかと思っていたのですが…。自宅に戻っても置いたと思われるところになくやってしまった…と辛い気持ちに。クレジットやら銀行のキャッシュカードを止めなきゃ。そういや保険書も入っていたなぁ…再発行手続きもしなければと色々考えてしまって精神的に病んでしまいました。

ダメ元で交番に届いてないかと思い、自転車で漕ぎつつ来店。紛失届を書くところで…、あぁ届いてないんだなぁ。これは仕方ないなぁと思いながらも無くしたものを自分の手で一筆。見つかってくれれば良いだろうと願いながら書き終えると。

「実は届いているのだが…」

担保(証明)の為にも無いように確認させていただいた。ただ、証明できるものが無いと渡せない。そりゃそうだよね…。一番の証明できる保険書も財布の中だとどうしようもない…。免許書も持っていないしパスポートはとっくに期限が切れている。

後日に住民票でも良いですが…と一言つぶやくと、やっぱり今日中に渡したいよね。と警察さんの一言。親御さんはいる?特例で「免許書と保険書」を確認いただければお渡ししましょうと、その言葉に御礼をしながらも親御に電話。中身も抜かれず無事に自分のもとに戻ってきたという訳です。

拾ってきた方に感謝

普段は戻ってこないものです。落としたらなくなるもの、消えてなくなるというのが一般的な考え方。そんな中で大切な時間を使いながらも財布を届けてくださった。感謝の言葉もいらないという慈愛を持ち合わせていらしゃったことに頭もあがらないです。

財布が戻ってきて良かったです。今度から落とさないように反省したいですね。

自分が思う「慈愛の精神」

否定的なことを討論する人は沢山いるけども、肯定的なことを討論する人は少ない。他人の不幸は蜜の味とも言ったところか、他人を思う慈愛の精神というのは限られた人が持っている特別なもの。

ところで慈愛の精神ってなんだろう?と思う人も多いだろう。簡単に言えば「自分が愛されたければ他人も愛しなさい」ということ、自分が幸せになりたければ困ってる人を助けなさい。そしたらいつか自分が困ったときに誰かの助けがくるでしょう。否定的なことを考えてる人には幸せなことは起きませんよという言葉です。

他人を恨めば、自分が恨まれる。他人を否定すれば自分にも戻ってくる。
人生というのはそういうものです。

ただ、「自分が幸せになりたいから他人を助ける」というのは慈愛の精神とは違うものです。よく勘違いされるのがボランティア「心の中で目立ちたいから」「協調したいから」とか「苦労を感じたい」が為に参加をする人が多々います。面白半分で参加するというのはそれは自分自身に快楽を求めたい(楽しみが欲しいがため)でしょう。とはいえ「キチンとした心前」で参加するのであれば、それは仏教的な思想「慈悲深い」苦しみを楽しみに変えて幸せにしたいという思想にもなるかもしれませんね。

慈愛とは「自分から幸せにはなってはいけない」愛情を振りまいていれば後から「他人から幸せをくれる」ということ。そして、この気持ちを心がけてると心が豊かになるものです。